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王舍城はなぜここに?

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王舍城はなぜここに?

日本三景・安芸の宮島をはじめ、瀬戸内の大パノラマが眼前に広がり、美しい自然にあふれる佛所王舍城。ここに宗教法人平等大慧会の本部がおかれていま
す。

過去、釈尊はインドの地で王舍城と耆闍崛山という場所に住し、佛法をお説きになったとお経典に記されています。

現代において、当会初代会長である教主・梅本禮暉譽は、真実の佛法の上から王舍城と耆闍崛山という佛様の住所を、平和を発信する拠り所として広島の地
に定めました。

なぜそれが広島であったのか――

建立の目的

1945(昭和20)年8月6日、広島市上空で原子爆弾が炸裂し、広島の街は一瞬にして焦土と化しました。原爆投下2週間後、教主は友人の安否を尋ねるため、一面焼け野原となった広島の地を訪れます。

戦争の悲惨さと虚しさを痛感した教主は、「大衆のために尽くしていく」ことを決意し、1954(昭和29)年11月に兵庫県姫路市で立教いたしました。

そして、3年後の1958(昭和33)年に本部を広島に移します。

その目的は2つあり、1つは原爆に遭った広島の地から世界平和を訴えること、そしてもう1つは、戒壇を建立することでした。

戒壇建立の地について、過去に日蓮聖人は「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて、戒壇を建立す可きものか。時を待つ可きのみ」と言い残されていました。

「霊山浄土」とは、インドで釈尊が教えを説いた「霊鷲山」のことであり、別名を「耆闍崛山」と言います。そこは鳥葬の地であったと伝えられており、墓場とも言えるような場所だったのです。

そして、広島は一発の原子爆弾により、非常に多数の犠牲者が出たところであることから、「この広島の地こそが世界最大の墓場であり、広島の地に戒壇を建立すべきである」と教主は悟ったのでした。

1961(昭和36)年には、当会施設の耆闍崛山道場が広島市牛田に定められました。

王舍城の場所とその地が定められた理由

お経典に依ると耆闍崛山は王舍城から見て、丑寅(北東)の方角にあったと言います。そのため、教主は耆闍崛山から見て南西の方角に王舍城の建立地を探しました。さらに、霊界からの指導により「中山」という場所に王舍城を建立すべきであることが分かり、今の王舍城の場所を見つけました。

1973(昭和48)年4月には、王舍城の地に「一天の戒壇・菩提樹」が安立されました。ここに真実の佛法の上から、戒壇建立が実現し、生きとし生ける全てのものが楽になる道が開かれたのです。

日蓮聖人の御遺文書に秘められた真実

ところで、日蓮聖人は御遺文書の中で次のように書き残しています。

「佛の給はく、辰巳の方より瑞相あるべし、汝精進して彼の方に向へ。彼方より光ささば鬼神三人来らん。此の鬼神の云く、南海に鳥あり罵忿と名く。此の鳥の住處に火災なし。又此の鳥一つの文を唱ふべし。其の文に云く、『聖主・天中の天、迦陵頻伽の聲を以て、衆生を哀愍したまふ。我等今敬禮す』云云。此の文を唱へんには、必ず三十萬里が内には火難起らじと。此の三人の鬼神かくの如く告ぐべきなり云云。」

ここに「辰巳の方角に住する三人の鬼神」が登場します。

実際に王舍城から辰巳の方角にあたる、宮島の山頂付近には、全国的にも珍しく、三人の鬼神がお祀りされているお堂があります。

このことは日蓮聖人が残された内容とも一致しています。

王舍城は、「聖主・天中の天」と言われた佛様が大衆を救うために説法をされる場所であり、衆生はこの王舍城において苦しみや災いから逃れられると言えるのです。